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雲の向こうはいつも青空

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萩の花  


散歩していて、見かけた萩の花
花が沢山付いていると、ごちゃごちゃした感じですが、
まだ咲き始めなのか、先のほうに少し花が咲いていてスッキリとした感じで撮れました。
背景も綺麗にボケてくれて、お気に入りの一枚。
IMG_2147-PS.jpg

シモツケの白花
これは、草のほうのシモツケソウではなく
街路樹で植えてある樹のシモツケ。
P8180340.jpg

かぼちゃの花
キュウリの花を大きくした感じです。
同じウリ科ですね。
P8180341カボチャの花


今日のメルマガの転載(ちょっと長いです)
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昨日からの続きです。北海道のマキちゃんのメールです。
(メールの続き)・・・・
人類が生きるための多様性が必要と言うことは生物学的には当たり前なことのようですが、学問が裏ずけてくれなくても、
人は障害の子供をたくさん生かす。途中で倒れた子供も必死で生かす。
倒れた親も一生懸命生かす。他人が倒れても救急車を呼び、多くが倒れれば一緒に泣く。
人のその愛情は、何の裏付けも無くても発動する、人が人でいると言う証ではないでしょうか。

そうしないのなら、
障害の子は野原に捨てて、運だけで採取して、真に丈夫で強いものだけ生き残ればいいような暮らしをすれば良いのです。
人はそうしなかった。
ヒトラーの世界は続かなかった。人はあれを普通の人の世界にする事を好まなかった。
あの世界で、どれだけの人が生き残れるんだろう。。。。
障害者を殺す世界は、独裁者が気に食わない普通の人たちも殺すことを、ヒトラーが教えてくれているように
相模原の犯人は、多くの人が薄々世の中にいらないと感じているかもしれない障害のひとたちを、
殺すことはやっぱりダメだと、命を感じさせてくれたらいいと、強く願っています。

どんなんでも、自分の子供は大好きなんだと、大事なんだと、失われれば悲しいんだと、
障害の子供に悲しみだけ感じていた人の、心を変えてくれたらいいと、思っています。
誰にも生きる意味があって、
悲しすぎることが起こることが、犯人にも「生きた意味が」やっぱりあるならば、
それは、障害の人たちの大事さを、人が「感じる」と言うことです。

犯人が精神病だと、報道されれば、精神病の方々もたくさん傷付けられ、誤解を受けて苦しい思いもするでしょう。
普通の人は精神病だろうとなんだろうと、妄想があっても、あんな恐ろしいことはしないと、人は知るべきだし、
あの犯人から、親がみんな不幸せに見えたのなら、親は自ら幸せになろうとせねばなりません。
子供たちがどれだけ自分に与えてくれたのか、話していかないとなりません。

「殺した方が良いと言ったら、誰も、賛成しなかった。みんなきれいごとを言っている」と、犯人が言ったこと、
必ずしも完全に間違いではないと私は思います。

実際身近に障害者のいない人は、親でさえ、人を殺すことはダメだと、わかるけど、
では障害者の価値はなんだと問われれば、多くの人は具体的にそれを説明することはできないでしょう。
こんな才能がある子供もいると言うことで説明したら、彼が言う「重度重複障害者」の価値はどのように証明するのか。

彼が納得しなかったのは、彼の問題ではあるけれど、彼のような考えの人が誰も納得しないのも、
親が悲しむとか苦労を訴えるとかばかりしていたり、
つらいことは言わないでいいことばかり言ったり、するせいもあるかもしれません。
普通の人が、つらいことも悲しいことも、嬉しいことも幸せもある、「この親子のリアルを」知らない。と言うことも。
私たちがうまく語らないからでもあるんです。きっと。
この悲しい事件は、私たちの心を真っ先に変えていかないとならないと言うことでもあるんだと思います。

「何の才能が無くても、何も為さなくても」大事な命なのだと言うことを、ヒューマニズムでもきれいごとではなく、
体で実感している私たちが、感情ではなく、哀れみを誘おうとするのでもなく、いろいろ恐れたり、
哀れまれないように幸せなふりをするのでもなく、本当のことを、魂で言っていかないとならないのだと思います。

だから、まっすぐな 神戸金史記者さんの言葉が本当に胸を打ちますね。
そうです。
本当にいろいろな、葛藤があります。
いろんなごめんねが子供にあります。

でも、大好きで、大事な子供です。
抱いて、体を洗って、ご飯を食べさせて、オムツを取り替えて、かわいい体に触って育てます。
だんだん大きくなれば、世話も大変になるけれど、普通よりも長い時間を触れあって一緒に生きていきます。
その長い積み重ねは、愛そのものです。
親が年をとれば、体が動かなくなって、出来ていた世話ができなくなるけど、
誰かにお願いしないと、親が死ねば一緒に死んじゃうから、施設にお願いします。
それは子供をただ生かしたいための、願いで、希望で、人というものへの信頼なのでもあるのです。
いらないから施設に捨てるんではないのです。
自分が150歳まで元気でいられるんなら、自分で最後まで育てたい。
身を切る思いで、お願いします。

それは、葛藤が普通よりも大きかったとしても、苦労が多いように見えても、
普通と同じ、
同じ親子の繋がりで、愛。
普通と同じ、愛なんです。

きれいなことだけで、子供たちが出来ているとは、私は思わないです。
人間だもん。いろんな思いがあるはずです。
暴れもするし、お母さんを殴る子もいる。
今回の事件でとても傷付いた子供も大人もたくさんいるでしょう。
犯人を恨む子もたくさんいるでしょう。
きれいなだけの人間はいませんね。子供たちも、おんなじ人間。
素晴らしいけど、いろいろな、個性の、普通の人間です。
みんな普通の人間なんです。

だから、子供たちが素晴らしいと私は、感じるけれども、素晴らしいから生きる価値があると言うような意味を
伝えたくはないです。

子供たちは暴れたり、うろうろしたり、時には人を叩いたり、泣き叫んだり、部屋を汚したり、ウンコ撒き散らしたり、
大声を出したり、笑ったり、寝たふりをしたり、まばたきだけしたり、
人を大好きになったり、すごくしつこかったり、喜んだり、悲しんだり、しながら、
素晴らしくなくても、誰からにも愛されなくても、誰でも生きていていいんだって、
子供たちは伝えてくれてるんです。

犯人も、
きっと自分の命を大事に思っていませんね。
平和のために、ヒーローになって、死刑になって、死んでもいいんだと思います。
ヒーローにならねば、生きる価値がなかったのかもしれません。
彼もまた。

彼もまた、、、、
その、自分もまた何かなさねば(生きる価値が無い)と言う思いがなければ、
障害者が何もしないから生きる価値が無いと、「感じなかった」のかもしれません。
誰にも理解されず、
誰にも納得させてもらえず、
自分もまた何者でも無くてもそのまま妄想を我慢して、何でもない、特別の価値が無いような、
周りが誰も賛同してくれない考えを持っただけの人間として生きることに
人間の価値があったことを、わからなかったんだと思います。

普通に言う、普通に感じる「役立たず」が生きる価値が、あることを、みんなが自分にも認めること、感じること。
子供たちは、それも教えようとしているんだと、私は思います。

犯人にも、生きる価値があったと言うこと。それを我慢できていたら、すごく大きな価値があったのだということ。
それはどうやってもわからなかったのだろうか。。。。。と、思いをはせます。

子供たちが歌ったり、踊ったり、できることをしながら一生懸命、楽しく暮らしていた場所。
その姿を思うとただただ悲しく思うたびに涙が出ます。

でも、
子供たちは、弱い体で命がけで来た子供たちだもんなあ。
命がけで一生懸命生きたのです。
その生きたことや、この悲しすぎることが、
大きな意味を伝えてくれるんです。

ならば私は、その命がけに対して、精一杯、答えるように生きよう。
へこたれないし、泣きながらでも頑張って生きていこう。

私が障害の大事な子供の親になったこと、意味を考えます。

他の障害の家族や、子供が受けたたくさんの痛みや、悪意も不理解も受けて、辛さやいたさや悲しみも。
よそで起きた事件も全部一所に自分の痛みになります。
私たちには自分の体験だけではない、代々の共通の痛みがあると感じます。
全部一緒に受けてたくさんの記憶を共同の痛みに感じて生きることで、
普通なら感じなくていい余計な痛みと感じることがきっとたくさんあるでしょう。
でも、
痛い目にいっぱいあっても、愛に向かって生きることに大きな大事な意味があるということ、
きっとたくさんたくさん教えられて骨を太くしていこう。

それでも、こんなことがあっても、愛に向くこと。
それを子供たちは願っているような気がします。
願いをかなえて行きたい。
人に対する愛を、揺り起こされて行きたい。事件を悲しむみんながそうでありますように。
大事な命が、愛に繋がっていきますように。
そう願います。

マリは「ママは私と暮らすことでハケれてるから大丈夫」だって。
あまり事件のことは気にしてないような言葉です。
ママのダメージの方を心配してるんですね。
仲間があんな事になったら、きっととても悲しいけれども、命をかけて大事なことをたくさん教えに来てくれた。
生きるも死ぬも、子供たちにはどちらも大事なことなのかもしれません。
大事な大事な、この世でのお仕事なのかもしれません。

こないだ「できないことがあるから、人と繋がる」という子供の言葉を聞いて、
人は、できないことがあるからこそ、人と繋がれるのだと、
できないことを、ダメだと感じることはないんだなあと、思いました。
そうすると、
何もできなくて、誰かに生かされなくては生きられない子供たちは、
生きている限り、絶対に誰かと繋がって生きていて、
生きているということが、絶対孤独にならないということなんだ。。。
と、感じました。
人と繋がることが人に一番幸せなことなら、
子供たちは、産まれながらに、幸せになるように産まれて来ているんだ。
子供を一番幸せにするのは、
私たちが、幸せになって、子供と繋がっていられることなんだと、
そうすると、私達親も、はじめから幸せを約束されていたんだなあ。。。。
と、しみじみ思ったのでした。

かっこちゃん、本当に今回の事件は悲しいね。
でも、やっぱり、子供達と繋がっていくことが本当に幸せなことだと言うことを、改めて本当にわからせてくれたよ。
悲しいほどにわかることがありますね。
悲しまなくても解れば一番いいんだけどなあ!

ではまた!
マキ
・・・・・

(私から)マキちゃんありがとう。私もまたいろいろなことを考えました。人を殺し
てしまったあの方は、自分のことを「人を殺すような人はいらない」ともし言われた
ら、どう思うのかなとも思いました。この人はいる、この人はいらないという考え方
を、正義のように考えておられたのだろうかと涙が出ます。
・・・・・

(マキちゃん)
かっこちゃんそうなんです。

私は、犯人を「お前こそいらない」と、真っ先に思いました。
その考えを繰り返しているうちに、なんか違う。それは違うって思えて来ました。
マリたちが、一般社会には、足手まといで厄介な存在でもありながら、
それが多分とても大事なように、
マリが家を汚して散らかして、話や「普通」が通じなくて、
心身共に疲れはて、「お前なんかいらない」と、感じてしまったことが、
今ははっきり間違えていたことがわかるように。
犯人は社会からは「お前こそいらない」と、きっとそういう側になったけれども、
きっとマリたちと、同じだと、思えてきたのです。

犯人にはきっと何かの脳の障害があるのでしょう。
人の感情がわからない。同情心がないというような障害なのだと思います。
海外ドラマで、ああいった大量殺人をする人と対し続ける組織のものがありました。
そういうのをみていると、どうしても殺人をしてしまうようになるような、
脳のあり方と、育ちの問題というものが語られていました。

とても恐ろしい人たちでもあります。
マリたちが平和の使者のようであるのとは対照的な気がします。
ヒトラーも、そういう対照的な人も、人の愛と平和の象徴である障害者を殺したいと思うことが、とても意味深い気がします。
理想と平和を語っているけれども、彼らの心に平和を憎むような気持ちがある気がするのです。

そういう意味では、何も悪いことをせずに、ただ愛に生き、
存在を認めてもらえるようになってきた子供たちは本当に幸せなのです。
彼らこそがなんとかしてもらわなくてはならない救いを求める魂であると、思えてきたのです。
ただ彼らを排除しても、いくらでも沸いてくるでしょう。
そうしてそれは、人の全体で考えないとならない大事なことが含まれているから産まれてくる。
恐ろしい彼らも、人のDNAが産んだ多様性なのだとしたら、
みんなで生きていく中に、彼らも、いるんだということを考えないとならないという気がするのです。

彼らが多様性のひとつで共に存在しながら、同胞殺しをしない世界を考えていくことは、
戦争やテロや恐怖独裁やカーストのない世界にしないとならないという、
誰も誰かを殺さない世界を考えていくということですね。
だから私も、彼の考えていることを正しく理解したいと感じます。

彼は彼なりに、自分勝手すぎるけれども、平和を考えた。
無関心であることが一番罪だと、マザーテレサが言っていましたが、
無関心である社会に極論を突きつけた。
「迷惑がっているなら殺したらいいじゃないか。」と、言ったのだと感じます。
社会が障害者を迷惑がっている心を、きっと見直さないとならないのです。
自分の手を汚さず排除しろと叫ぶ心はきっと間違えていますね。

彼は恐ろしいけれども、とても正直なのです。
そこに人はきっと彼を通して自分の勝手や矛盾やいただけないものを見つけて、
1人1人が自分の心の中の殺人者を説得して
考え直してもらっていかないとならないんだなあ。。。
というように思っています。
大にあることは小にもある。そういうこともあるのかなあって。
戦争のある世界には殺人者がいる。人の心の中にも。
でも、重度の障害の方は絶対に殺人者にならない、人の中では一番罪のないきれいな魂ですね。
重度の障害の方は生きる意味はあるのかという問いには、彼が自ら答えを出したように思えます。

どんなことがあっても、どんな環境でも、絶対に人を殺さない魂。
重度の障害の方が、誰よりも「人らしい」存在であるんだと。

本当に多くのことが思えます。
かっこちゃんも、どうぞ心は安らかに!
暗いつらさを見せると同時に、
オリンピックで若者たちが頑張ってくれていますね!
いつもは意地の悪いことばかり言ってるネット住民達も、
感動して素直に喜んでいます。
人はやっぱり良いものです。

その中にあるダークなものも、みんな本当は光に向かいたがって、一生懸命オリンピックも見るんでしょうね。

内村選手かっこよかったですよー!

載せるのは大丈夫です。不都合な部分があったら削除してください!
ではまたね!かっこちゃん!
(メールここまで)・・・・

マキちゃん、ありがとうございます。

今、私は映画を作っていてそのことを不思議に感じています。
なぜ、誰のことも殺してはいけないかということを、ネパールの人たちが教えてくれたと私は感じています。

すべてがひとつ。まるで自分の体の部位が、全部で自分を作っているように。
そして、手が痛くなったから、足が疲れるようになったから、思うように動かなく
なったから、切り捨てるかというと私たちはそうしない。
手をかばい、足をかばい、痛みをさすりながら生きていく。

そして、体のなにひとついらないところがないように、私たちはかけがえのない存在なのだということを。
やっぱり、もう一度みんなで考えたいと私は思います。
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